1年前の過去記事。いいね、わたし(自画自賛)
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わたしたちは、自分が「価値がある」と思っている人間になろうとする。
できるかぎり、完璧をめざし、
できるだけ、すべての条件をクリアしようと、日々採点することに忙しい。
今日はあれができて、昨日はこれができなかった。
いま、わたしは理想としている価値がある自分とくらべて、
どのくらいだろう?
どこにいるだろう?
どれくらい近づいているだろう?
そうやって、毎日、いまの自分と、価値があると設定した架空の自分との間を
思考で埋め合わせることに、いっしょうけんめいである。
ストレス、というものは人それぞれ違うのだけど、
万人共通のストレスは、この「価値がある人間」という架空の理想像に振りまわされることだ。
でも、いままで、価値がある理想像にちかづくため「だけ」にがんばってきたひとは、
それがなくなることがこわい。
理想像が崩れることが、こわい。
いまの自分で、そのままで、いいんだよ、と言われることが、こわい。
受け入れられたいのに、
受け入れられるために、価値がある自分になろうとしているのに、
「まだ、価値があるあなたになれていない、そんなあなたを受け入れます」
と言われても、納得できない。
・・・おかしな話だ(笑)
理想の自分をすてるな、とはいわない。
価値があることをしようとがんばるな、とも言わない。
それが生きる糧となっている人も、たくさんいるから。
でも、そうではない道、生き方、ありかた、があってもいい。
道はそれだけじゃない、と
そう知っておくだけでもいいんじゃないかと思うし、
その道は自分で選択できるものだとおもう。
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むかし、しんどくてしんどくてしょうがなかったときに、
ふと本屋さんのあるコーナーに、
「もう、限界」
ということばがあって、
それが目に入ってきた瞬間に、その場で泣き崩れたことがあった。
そのときに、涙と一緒に
架空の「価値がある人間」像は、するすると流されていった。
本屋に取り残されたのは、
なにもない、なにももっていない、誰でもない、ただのわたしだった。
ただのわたし、がそこにいて
あいかわらず本棚にならぶたくさんの文字もそこにはあって、
何も変わらないのに、
わたしはもう、何も自分の中に取り込む必要はないということを知った。
買おうと思っていた本は買わず、
なんの役にもたたなさそうな、写真集を買って、かえった。
それいこう、本屋でそのコーナーにはもう、行っていない。
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価値がある人間になろうと、
恋愛を◎◎の状態にしようとしたり、
貯金を◎◎の金額までひきあげようとしたり、
人間関係を◎◎の形にしようとしたり、
仕事を◎◎にしようとしたり、
人はいろんな条件をクリアして
価値のある人間になろうとする。
そう教えてもらったし、
それしか、生き方を知らなかったし。
でも、そうじゃなくてもいい。
価値がある人間になろうとすることをやめて、
価値がある人間である自分としてふるまってみる。
世界はやさしく、微笑んでくれる。
自分の人生は、
あんがいいいもんだ、とおもえてくる。
なろうとする、から
そうであるように、ふるまってみる、へ。
あの日からわたしは、
自分にすこしだけ、やさしくなった気がする。
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