耐える、という行為を
好印象に捉える人は少ないでしょう。
しかし、人生にはときに
耐えることが必要なときがある気がしています。
耐え忍ぶことと我慢することはちょっと違うとおもっているわたしですが、
このふたつは感じからしても、その違うが読み取れますよね。
忍耐・・・忍ぶと耐える。
忍という文字には
はずかしめや苦しみに心を動かさないこと
という意味があります。
一方、我慢の慢という文字には
他を軽んじて自らをよしとする。たかぶる。
という意味が含まれています。
我を慢する。
つまり、
我に高ぶる(偉そうな態度をとる)
なんとなくですが、
忍耐と我慢は似て異なる理由が
ここに隠されているように思いました。
あくまでもわたしのイメージですが、
忍耐というのは
ひっそりとその物事に対して、
受け入れつつもときをじっと待つ。
そういうような気配がします。
その代わり我慢というのは、
「我慢してやってる」みたいな傲慢さがあるというか…
ときをじっと待つのではなく、
何かを恐れ不信におもい、力をこめていつでも戦えるようにしている、
という感じでしょうか。
どちらにせよ、ただの印象の違いですが、
わたしは我慢はしませんが、忍耐を選ぶときがあります。
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たとえば、好きなことをやるとき。
好きなことを仕事にするとき。
いくら好きなことだからといって、
すべてがいつも順調なわけではありません。
それでよくて、それがよくて。
すべてが順調じゃないからこそ、
緩急のある流れの中に生(いのち)を我々は見出すのではないかと思うのです。
好きなことをやっていても、
忍耐する
という時期があったりします。
春夏秋冬でいうなら、
冬から春にかけて、でしょうか。
じっとときがくるのを待ち、
花がさくそのタイミングまで、耐え忍ぶ・・・。
これは我慢ではなく、
好きなことをやるプロセスの中にあるひとつの通過点のようなものです。
だからこそ、
たとえ忍耐であったとしてもそこに自分なりの意味や
じっとときを待つことの味わい深い喜びなんかを感じることができたら、
耐える
というのはとてもポジティブなものとなります。
我慢はしない、と先ほど書きましたが
ここでわたしが言う我慢、というのは
「抑圧」のこと。
じっとときを待つのと、
抑圧するのとは違いますよね。
待つ、のは静的。
抑圧、は動的です。
だから、我慢は一見「うごかない」でいるように見えて
実は何かをむやみに押し付けて
自分に無理な価値観や要求を押し付けて、
そして、抑圧している。
だから、我慢はしません。
でも、忍耐はします。
(というか、たぶん好きです、忍耐。笑)
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わたしがこのはなしを書こうと思ったのはね、
最近、わたしを含めこの忍耐の時期にいるなぁ、と思う人が
けっこういたからなんです。
普通、この業界では
(というか、最近の傾向では)
がんばらなくていい
がまんしなくていい
という傾向が強いのですが、
逆に好きなことをやっているときに訪れる
忍耐の時期を、
あっけなく待たずに「やーめた」ってなってしまうの
もったいないなぁ、と思うこともあって。
たとえば
「わたしはやりたいことがわからない」
という人に限って、
「やりたいことがなんなのか」を考え、
探し、そして、待つ。
というこの最後の「待つ」ができずに
ちょっとこれかな?
あ、ちがうかも、うまくいかないな?
じゃあ、これかな?
あ、ちょっとちがうかな?
じゃあ、これでしょ?
ん?ちがうな~たぶん・・・
え~どれだ~?
ってなっているのです。
何かをすぐに決めることなく、
すこしだけ、忍耐してみる。
じっと待ってみる。
でも、正直どこまでまてば、いつまでまてばいいか、わからない。
たとえ好きなことをやって生きていこうと決めたとしても、
うまくいかないかもしれない。
うまくいく未来が待っていたとしても、
それがいつになるかわからない。
どれくらいの程度までやれば、
「これはやりたいことなのだ」とわかるかってのも、未知。
そう、すべてね、わからないもんなんですね。
(運命のパートナーとかも、そう。天職とかも、そう。)
だから、
忍耐は、自分で決めてしまう。
ここからここまでは、耐える、と。
自分で納得し、自分で選んだ忍耐なら、
結果がどうであれ、そのプロセスは自分の自信になる。
耐えよ諸君!
とは言いませんが(笑)
今、何かを待っている人に
エールを。
忍耐も、
いいもんだぜ!
(エイエイオー!)