先日、Facebookでこんなことを書きました。
———–
本当にやりたいことをやっているとき、
ゴールや目標というのはなくなって
プロセスそのものが自分にとっての喜びになるときがある。
そうやって過ごしていると、
自分のやりたいことそのものが明確な意味を持たなくなり、
正当性や理由やわかりやすい利益などを持たなくなって、
ひとに説明するときに、
「ただ、やりたいからやっているだけ」となる。
でも人は常に、自分のやっていることに意味が欲しい生き物だし、
だどりつく先があることを分かっていたいと思うわけだし、
他者に説明する正当な理由がないと不安になったりする。
「やっていることが楽しいから」では
認められないと思い込んでいるから、
とにかくアレコレ理由を探す。
意味を求める。
そして気づいたら本来の楽しさを見失っている。
それって本末転倒だから、
「やっている瞬間がたのしいからやっているんです。(以上!)」
が最もすばらしい理由である、というイメージが
あちらこちらに浸透していけばいいな、なんて。
いわば、やりたいことをやるのにあたって、
信念とか強い意志とか、必ずしもそこに必要であるわけではない、ということ。
————-
わたしは、やる気があるのではありません。
わたしは、わたしの中に流れるやる気に、
ただ流されているんです。
わたしは、才能があるわけではありません。
わたしは、わたしの中にもともと流れている
エネルギーや得意なことへの感性を感じ、
それにただ流されているのです。
いままでの生きかたを振り返ってみたら、
ずっと、ぜんぶ、いつも、
わたしは流されてきました。
こう見えて(笑)
流されやすいんです。
でも、それは一般的な「流される」とは違う意味です。
常にわたしは、わたしの中にうごめくものに身を任せてきた。
わたしの中に流れる、すべてに。
根元に。
龍脈のような、そんなラインに。
リズムに。
音に。
そして、鼓動に。
目標はもたなくてもいい。
登ろうとしなくてもいい。
やる気をもたなくてもいい。
でも、ことばの通りじゃない。
どうやって伝えようか?とずっと思ってきましたが、
結論はひとことになりました。
ただ、流されろ。笑
人にじゃなくて、
社会にじゃなくて、
自分に。
わたしたちにはみな、
そのような流れというか、脈というのがあって、
ほんとうはみんな
やりたいことも知っているし、
どうやってやればいいかも知っているし、
うまくいくことも知っているし、
大丈夫なことも知っている。
でも、うまく流されないと自分を見失って
人に流される。
自分に流されよう。
ってことで、
7月25日そんな話を聞きにきてください♪
流されてうまくいくほうほう、
流されてすべてを受け取るほうほう、
流されてお金稼いじゃうほうほう(笑)
お伝えします。
お伝えしちゃいます(笑)