むかしわたしは『助けて』が言えないひとだった。
今もそれは苦手なのだけど、
すこしずつ
助けて、を言わせる場面に助けられて(笑)
ここまできた。
今ではすこしずつ言えるようになっている。
誰かが勝手に助けてくれることを祈らずに、
ちゃんと自分からSOSを言える。
これってとても大切なこと。
どんな人間も、その人なりのSOSを持っている。
でも、
それを人には見せないこともある。見せられないこともある。
きっとこれを読んでいるあなたにもあるだろう。
いつも笑ってばかり、じゃないし
どんなに成功している人だって
ふとした時に寂しくなるものだ。
仕事柄、たくさんの人に会うし、
みんなとにかく遠回しに何かを訴えてくる。
まるで「助けて」と言うことが罪のように
もったいぶって
申し訳なくって
遠回りして遠回りして
SOSをだしてくる。
口々に平気でめんどくさいことを言う人もたくさんいるけれど(笑)
そういう人に限ってほんとうに言いたいSOSは口から出せない。
自分でさえ、どうしたらいいかわからないから
だから、ほんとうはべつに、だれも悪くない。
助けあおう、それだけでいい
って満員電車の中座りながら思ったの。
愛してるって、言いあおう。せめて心の中で。
みんな、言われたいと思っているから。
おつかれさま。
よくがんばっているね。
ありがとうね。
愛しているよ。
誰もが言われたがっているから。
みんなで言い合えばいいじゃないか、と。
それをひとりひとりがもし目の前の人にひとりずつ言っていったら、
いつしか自分にも巡ってくる。
そうやって循環する。
わたしたちの中にある寂しさやSOSをたどって巡ってゆく。
みんな寂しくて、みんなSOSを秘めている。
ただそのタイミングが違うだけ。
それを持つことさえダメだと言われたなら、
誰かとつながることはできないのだとおもう。
わたしは寂しさをなくそうとなんか、しないわ。
いい気分でいることが大切だと書いたけれど、
いい気分でいることは、
寂しさを紛らわすための手段じゃないの。
SOSをもっと、交換しあえると、いいよね。
わたしこれが苦手。困っているの。
あなたはなにに困っているの?
もう平気な顔しなくていい。
(写真はモンゴルで撮った星空だよ。)
追記:
でもね、助け合うってね、
SOSをきちんと言い合うってことだと思っていて。
察して欲しいとか
助けてって言わずになんとかしてほしい、じゃない。
だから結局たいせつなのは
助け合う精神というよりも
「助けて」がもっと言える環境づくり・社会づくりなのかもしれない。
Facebook投稿のちょい編集記事でした。