昨日、フェイスブックでこんなことを書きました。
———-
【平気で自分のせいにする人と、本気で自分のせいにする人】
何か嫌なことがあったとしよう。
その時に、平気で自分のせいにする人がいる。
または、平気で他人のせいにする人がいる。どちらも同じことである。
しかし、
『本気で』自分のせいにする人は少ない。
また、『本気で』人のせいにする人もいない。
吟味なんてせずに、
意識なんてせずに、
痛みや感情に触れようともせずに、
さっさと片付けようとし、
「平気で」になってしまう。
本気で自分のせいにすることはつまり、
自分自身と一悶着することである。
あーでもないこーでもないと、
自分の中の言い訳をちゃんと聞き、
その言い訳の奥に隠れた「寂しさ」が顔を出すまで一悶着、やりあうのだ。
自分と一悶着すると、
いろいろな感情と出会う。
感じたくないこと、聞きたくない声、
自分の中の痛みと出会う。
それが嫌だから、平気で自分のせいにしてしまう。
どうせわたしが悪い。(どうせ、あの人が悪い)
どうせ自分がいけない。(どうせ、あの人がいけない)
どうせ、で片付けられたことは
消化もせず、消費もせず、
活かしどころのないまま自分の中で腐っていく。
本気で自分のせいにしてみると、
そこに現れるのは自分の弱さや認めたくない失敗、そして何より”自分自身に嘘をついた”という確信なのだ。
だいたい嫌なことがあるとき。
どこかで自分に嘘をついたのだ。
本当は思ってもいないことを言ったこと。
本当ややりたいと思っていないのに
ごまかしたこと。
嫌というほど見えてくる。
しかし、その確信と触れることで
自分と仲直りすことができる。
感じることができて、自分はここにいることがわかる。
一悶着とは、自分との対話なのだ。
自分を含めた誰かのせいにしたいなら、
平気で、ではなく本気で。
平気が本気になったら、もはや愚痴など必要ない。
自分を含めた誰かと一悶着してもいい。
むしろ、することが、よい。
そのプロセスによって深い仲直りができるから。
心から反省する時、そこには自分への愛と、
嘘をついたことへのごめんなさいと、
そして尊敬やいたわりが、あるのだから。
———-
この投稿で書きたかったことはつまり、
何でもかんでもすぐに自分のせいにしてしまうのを、やめようということだ。
多くの人は心理学を学ぶと、
そこから自分の中から原因を探す旅に出るようになる。
しかしそれほど、不自由な旅はない。
むしろ、迷路のように路頭に迷い込む。
ひとつひとつクリアするようなゲームになり、ゲームをクリアするごとに
自分にスコアをつけて、安心する。
自分の中にある原因となりそうな様々は、痛みを伴う。
吟味せずに
味わいもせずに
えい!と力任せに「どうせ」で片付けちゃうのが簡単。
でも、ほんとうにそれでいいのかしら?
ほんとうにそれで、よいのかしら?
平気で、はクセになる。
本気で、は意識的。
さぁ、吟味してみよう。