12月に入りましたね!
去年のクリスマスイブの過去記事です
今年もクリスマスイブは〇〇〇しそうな予感…笑
(ネタバレは最後に。)
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よく、「どうやったら秦さんのように、わかりやすいブログが書けるようになりますか?」と聞かれることがあります。
しかし、わたし自身
「わかりやすいように書くにはどうしたらいいかなぁ?」
とは考えますが、
「わかりやすいブログを書こう」とは思いません。
また、
「読んでもらって、ハッとするような感じは、どんな感じかなぁ」
と想像することはしますが、
「読んでもらって何かを与えらえるようなものじゃなきゃ」とは思いません。
20歳の頃からずっとそうでした。
誰かの為にブログを書く、潜在意識の仕組みを伝える、講座をする、何かを発信する・・・それらの行為の原点はまず、「自分のため」が、基本でした。
※なんてったって、独立当初のわたしのブログタイトル『わたしのあたまのなか』ですからね!笑 そんなんで始めてもいいんですよ。笑
「わかりやすいように書くにはどうしたらいいかなぁ?」
とは考えますが、
「わかりやすいブログを書こう」とは思いません。
この感じ、この違い、伝わりますかね?
わかりやすいブログを書こうとは思わないけれど、
わかりやすくするにはどうしたらいいかなぁ?とは考える。
フニャフニャ考える。
ムニムニ妄想する。
ホニャホニャ考えてみる。
(*´ェ`*)←こんな顔してね
いや、想像している、イメージしている、そしてそれを楽しんでいる、にちかいかな。
とにかくね、”強制”は、”想像(創造)の自由”を奪うんですよね。
だから想像(創造)を楽しみたいものは、強制はしません。
逆に、何かを楽しめないときは、想像(創造)ができていません。それが無意識のうちに強制になっています。
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また、このようにも表現できます。
「誰かの為になる記事」を書こうとは思いませんが、
自分の記事が「誰かの為になるように」想像はします。
だってそのほうが楽しいもの。
そうすると、たくさんアイデアやたとえ話や説明の方法が浮かびます。
でも、結果なんて、わかりませんよね。何人読んでいるのか、誰に届くのか、どう感じるのか。為になるのかならないのか。結果なんてはっきりしない。
ただ、プロセスが楽しいかどうか。それが重要なんです。
※結果が重要じゃない、ということじゃなくて、プロセスを楽しめないのに結果を求めるのは順番が違う、ということね。
この感覚を、ギブアンドテイク・・・ではなく
ギブアンドリリース。
と、わたしは勝手に命名しています。
与えて与えて、そしてリリース(放つ)。
自分にイメージや想像する自由を
与えて与えて与えて、そして放つ!
ピューン!
人になんか与えようとする前に、自分にまずは想像する自由を与える。何でもかんでも空想でもいいから妄想する自由を。
自分なりに考えてみる自由を。すぐに答えとか正解とかどうしたらいいかとか、解決策の前に・・・
”想像の自由”を!!!
ギブしてギブしてギブするの。
そして湧いたものを、リリースする。
誰かの為になろうとしてもいいし、
何かをやろう!と目標をたててもいいし、
稼ごう!でもいいし
遊ぼう!でもいいし
もっと理解しよう!でもいいし
変わろう!でもよい。
なんでも、よい。
目標とか夢とか小さくても大きくてもなんでもよい。
が、しかしプロセスがそもそも楽しくないことは結果に執着するし、結果に執着していればプロセスは楽しくない。
その執着から解放される唯一とも言える方法は、”想像する自由”を自分に与えることなのではないでしょうか。
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誰かのためになりたいなら、なりましょう。
何かを成し遂げたいなら、成し遂げましょう。
がんばりたいなら、がんばる。
やめたいなら、やめる。
やりたいなら、やる。
しかしそこで強制してしまうと、とたんにイメージが湧かなくなり、書けなくなり、そして嫌になります。
他のことでも全部同じ感覚。
「楽しまなきゃ」とは思わないけれど、「どうしたら楽しいかな」とは想像する。
「理解しなきゃ」とは思わないけど、「どうしたら理解できるかな」とは想像する。
その方がたのしくって
その方が自由で、
そのほうが、自分にやさしい。
まずは、想像する自由の幅が増えること。
そのためには自分の中から勝手に浮かんでくる思い込みを、いちいち自覚して吟味すること。
問い直す。
自分で勘違いしているかもしれない可能性に、賭けてみる。
想像の自由が広がれば、プロセスを楽しむことができるようになる。
プロセスが楽しい!と思えたとき、結果に執着はなくなるが、結果を出したい!と決めてまたそこへ向かうプロセスを楽しむことも、できる。
巡り巡って、結果は、出る。
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余談ですが、昨日Facebookにこんなこと書きました。
誰かのためになろうとする、無意識のクセを誰もが持っています。
誰かのためになる自分像として設定しているのが、
いわゆる”理想”の自分です。
かっこいい自分でいたい
かわいい自分でいたい
素直な自分でいたい
できる自分でいたい
稼げる自分でいたい
期限のよい自分でいたい
ひとは実にいろんな理想を持っています。
その理想の奥深くに眠っている”ほんとうの願望”みたいなのって、ほとんどの場合”誰かの喜び”につながっています。
小さい頃ならお父さんとかお母さんとか家族とか。
すこしずつ変わっていって、先生とか先輩とか上司とか架空の人物とか。
憧れの理想像を抱き、それを胸にひめていることで、
”自分は誰かのために、がんばっている”と、そうやって間接的に自分を褒めてあげることが、できるわけです。
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しかし、
”誰かの喜び”の「誰か」という部分に、自分がまるっきり入っていない、ということがあったりします。
そうなってしまったら、自分の持っている理想像や「なりたい」「ありたい」というのは、
強制的、かつ支配的であり、後ろからおいかけてくるオバケのようなものへと変わってしまいます。
いわゆるそれが”~でなければならない”という強迫観念になるのです。
理想を持つこと、目標をもつことはたいせつだと思っています。
それに、誰かの為になりたい、誰かの喜びの為に何かをしたい、というその心は、持っていてもよいと思うし、完璧に手放すことなどできません。
しかし、その理想像や自分の中に秘めている”誰かの為に”が、
自由で、豊かで、やさしいものであるのかどうか。
ここは、いわゆる日常的に行われている家の掃除と同じくらいの頻度で、確かめていたいと思うものです。
よろしければ年末のお掃除とともに、いかがでしょうか。
(我が家は明日が大掃除です。メリクリイブイブ!)
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・・・ということで、我が家はクリスマスイブに大掃除でございます。