好きなものと、食べたいものって、似ているようで違う。
何が好きですか?と聞かれると、いろいろな種類の料理が浮かぶけれど、
今何が食べたいですか?と言われると
好きな食べものの部類ではない種類の料理が
突然浮かぶなんてことも、ある。
今日、わたしは
好きな食べものを、食べた。
誰にでもソウルフードたるものがあると思うのだけど、
わたしは例にももれず、中華系の料理が好きだ。
なんせ生まれ母国がそっちだもんで、
疲れた時にはダシが聞いたお味噌汁・・・よりも!
薬味の効いた、
スパイシーなものが食べたくなる性分。
そんなわたしは今日、
好きなものを食べるという選択をした結果、
「今、食べたいもの」を無視して
昼間から餃子と炒飯セットを食べてしまった。
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食べてしまった、と書いているだけあって
それに対する後悔が今、ふつふつとわたしの胃腸から伝わってきて
しまいには、今日の朝に準備してきた
すべてのやる気と元気が
餃子と炒飯の消化に持って行かれてしまった。
わたしは何が食べたかったの?
ほんとうは、何も食べたくなかった
けど、「お昼だし食べとこう」的な安易な気持ちで、
食べたいものがないにも関わらず、
ハタユカは餃子と炒飯でも食わせておけばいいだろ的な
これまた安易な判断で、好きなものを食べようと決めた。
で、結末がこれだ。
やりたいこと、というのもこれに近い気がする。
やっていて楽しいこと、嬉しいこと、好きなこと、というのは
やりたいこととは違っていたりする。
その時の自分がやりたいことと、
自分の好きなことや得意なことも、似て非なるものだ。
見極めなければいけないというわけでもないけれど、
自分のやりたいことなんていうのは、
好きな食べもののように、
ほんとうは、これ!というものがあるのではなく
「塩っ気のあるものがすき」
「甘いものがすき」
「ふわっとした食感のものがすき」
「コリコリっとかみごたえのあるものが好き」
のように、感覚的なものであって、
その感覚的なもののベースがあった上で、
「今、何がやりたいか」という小さな決断が下されていく。
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先日配信したメルマガでこのようなことを書いた。
ある時発見したのです。
「あ、わたしにはやりたい”こと”があるんじゃなくて
好きな流れ、というものがあるだけなんだ 」と。
つまり、やりたいことがあるというより、
”好きな流れ”や”心地よいプロセス”があって、
その中に体験したい様々なことがあるだけなんだな、
別の表現をするなら、
「やりたいこと」よりも、
◎過ごしたい生活やライフスタイル
◎心地よいと感じる物事の流れ
◎こういう生きかたをしていきたいと思う感覚
が大切だった、ということなのです。
この、
◎過ごしたい生活やライフスタイル
◎心地よいと感じる物事の流れ
◎こういう生きかたをしていきたいと思う感覚
の中に、やりたいと思うことや
体験したいとおもうことが、存在するだけ。
なので、
やりたいことがある
↓
それをやろう
ではなく、
好きな流れやプロセス、
↓
じゃあ、その中で何と何と何をしようっかな?
という感じだったのです。
■”こと”から自由になろう。
そのことに気づくようになってからは、
もっと自分が、
その時その時の自分に素直でいられるから、
明日、明後日も「やりたい」と思う保証はないけれど、
でも、今のわたしはこれがしたい!という気持ちに素直になれる。
やりたいことがない、あるいは
やりたいことがわからない、と思って苦しんでしまう人は、
多くの場合、
「ずっと続くもの」みたいなのを探してしまうんです。
まるで失敗なんてしちゃいけないように。
やりたいことって、もっと自由でもっと流れの中にある
ひとつひとつの点のようなものなのに。
それが自分の人生を決めてしまうかのように、
重大なことにしすぎてしまうんです。
でも、そのひとつひとつの点にこだわるよりも、
◎過ごしたい生活やライフスタイル
◎心地よいと感じる物事の流れ
◎こういう生きかたをしていきたいと思う感覚
を知り、その流れの中で生まれる
その時その時のやりたいことを大切にする。
小さいこともあれば、大きいものもある。
続くものもあれば、続かないものもある。
でも、そのベースがプロセスが心地よいもので
自分の好きな流れなのであれば、
別に”どんなことなのか”に執着することも、ないんです。
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つまり、そういうことなのだろう。
今、必死に後悔とともに消化活動をがんばっている、
胃腸をすりすりしながら、おもふ。