ずっとコツコツ長年やってきたことで
最近、想定以上の結果が出ているものがある。
それを振り返っていて思った。
あー。努力が花を咲かせるんじゃないんだなって。
語弊があるかもしれないけど、
努力そのものが無駄なのではなく、
必要な努力と
無駄な努力があるだけだということ。
例えば、先に未来には結果が決まっているとする。
その結果に向かっているときの努力は心地よくて楽しくて夢中になれる。
ひかりを見て進むからだ。
そうじゃない「やらなければいけない」から設定した、無意識の結果に向かっているときは
うしろからオバケが追いかけてくるような、そんな感じで辛い。というか、こわい。
追いかけられる努力と
ひかりに導かれる努力。
はたから見たら同じだろうけど、
ひかりに導かれた努力の道に残る
その足跡ひとつひとつが
豊かな土壌をつくり
そして、ふと後ろを振り返ったときに
花が咲いていることに気づく。
想定以上の結果が出ていることは
努力もしたし
頑張った時期もあったし
たいへんなこともたくさんあったけど
常にひかりが導いてくれた。
そして今もなお、
ひかりが見えるから
結局、咲いてる花(結果)は
前を向きひかりを見つめる自分ではなく、
その後の道を歩む者たちのためにあるのだなぁとおもう。
(写真は広島の太光寺)
わたしは努力がすきだ。
でも、
辛い努力は嫌いだ、
というか
選択しない。
おかげで、
できないこと
わからないこと
に対する免疫がかなり高くなったと思う。
つまり、
出来ないことがあっても
あまり気にしないから
できるまでちょこちょこ
コツコツできる。
わからないことがあっても
それに罪悪感がないから、
わかるまで
こうかな?
あんな感じかな?
こういうことかな?
と考えることがすき。
もちろん、
昔は正反対で。
わからないことがカッコ悪いから
それ以上知ろうとしなかったし、
出来ないことは恥ずかしいから
挑戦する前にやめるか、
言い訳をして避けていた。
でも、
分からない自分
出来ない自分を
本気の本気の本気で受け入れてみたら、
そんなことどうでもよくなって、
やってるときの自分や
やっている最中がどれだけ
楽しくて好きな時間であるのか
これを基準にするようになった。
だから、
自分のことが嫌いになったり
やっている最中とても
辛い気持ちになる努力は
そもそも、
歩んでいる道が違うのかもしれないと
分かってからは
方向転換することにしている。
そういう道は
歩かなくてもいいと、思うようになった。
そういう道、つまりそれは
自分自身じゃない
誰かの道。
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