ある日のスーパーの帰り道。
まぶしい西日をあびながら、ふとおもった。
「あ、そうか。わたしっていつか必ず死ぬんだよね」
別に、病気になったわけでもない。
思い悩んでいたわけでもない。
死について憂いたわけでもなければ、
なにかが嫌になったわけでもない、
ただのただの、今日の夕飯つくろうっと、
な日常の中に急に降りてきた、不思議な感覚だった。
それは、わたしに何か別の感情を与えるものではなく、
ゴクリと軟水を飲んだときくらいの
ちょっとしたさわやかさを帯びた、
ほんとうに不思議な感覚。
かといって、
今生きていることを大切にしよう!!!!!!!
(びっくりマークの数が重要)
と思ったわけでもないので
それはそのまますーっと通り過ぎていったのだけど。
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そのあと夕飯を作りながらぼーっと考えた。
そうか。
わたしはいつか必ず死ぬなぁ。
なにかが残せたとしても、
残せなかったとしても、
どうせ死んだわたしは、
それを身を以て確認することは、できない。
誰かが、
あの人はすごかった
といっていても、
誰かが、
あの人は最低だった
といっていても。
それは、わたしのすでにいない世界で広がることで
わたし自身はもう、そのことばにさえ触れることができない。
さみしい、
とは思わなかった。
でも、そのかわり
何かを残したとしても
自分自身はそれに触れることができないならば
がんばって何かを残そうとする必要もないんだろうな、とおもった。
たとえば、地位とか。
お金とか。
(家族や子供がいたらべつかもしれないけれど)
愛とか友情とか。
残そうとする必要がないということはつまり、
”わたしのものである”ものは、
実はなにひとつないし、なくてもいい、ということでもある。
残す必要もないのだから、
所持する必要もない。
持っていないことに、嘆く必要もなければ
”ある”ということに執着する必要もない。
わたしたちはときに、
あるとかないとかに、
翻弄されすぎるとおもうんだ。
持っているとか、持っていないとか、よりも大切なことがもしそのときの自分にあるならば、
わたしはそっちを大切にしたいとおもった。
孤独なことかもしれないけれど、
わたしのものであるもの、こと、ひとは
なにひとつ存在しない。
それはただの幻想である。
(そして、幻想であっていいし、
幻想をみていても、よい。 )
だから、べつに
”わたしのもの”を増やす必要もなければ、
”わたしのもの”が減っていくとか減るだとかで
思い悩むことも、ほんとうはない。
あぁ、
”わたし”ってなんて自由なんだろう、とおもった。
(この”わたし”っていうのは、秦由佳のことではなく、
「わたし」という感覚のこと)
持っても良いし、
持たなくても良い。
あってもいいし、なくてもいい。
とても自由。
わざわざブログに書くことでもないかもしれないけれど、
残しておきたいと思った雑感。
わたしは、
実はなにも手にすることができない
し、
なにも手にする必要がない
のかもしれない。
だからこそ、何かを手にする自由も権利も同時に持ち合わせている。
それは必須なのではなく、あくまでも”楽しみ”である。
だから、持っていることや
持たないこと、を楽しもう。
あるなら、あるを楽しんでみて、
ないなら、ないということも楽しんでみる。
自分にやさしい生き方なんじゃないかとおもった。
・・・まぁいいか、といって味噌汁の準備をした。
いつもよりちょっとだけ、
味が濃い気がしたのは気のせいだとおもいたい。