あるがままでいた時に、
誰もがほんとうにすべての人
(全世界中、という意味ではなく周りにいるすべての人)
にとって喜ばしい存在となります。
こんな欠点がとか、
あんな短所が、と自分では思っていた部分が
周りにとっては絶妙なプレイス(居場所)となるのです。
みなさんも経験ありませんか?
人間としてとか、存在として完璧な人よりも
ちょっとダメで、ちょっと情けなくて、ちょっと弱々しい
誰かの一面が、自分のこころのよりどころとなる時って。
そういうのって、居場所なんです。
だから、自分も同じなんです。
自分は誰かの居場所となることが出来るんです。
それも今すぐに、何かを得ようとしなくても、
頑張ってお金を稼ぐとか、
頑張って綺麗になるとか、
そういうことをしなくても。
隠している穴が自分の中でみつかったときに、
その「穴」こそが誰かの喜びであることを知る前に
自分でなんとか、なんとか埋めようとする。
そんな必要は、ないんです。
そんな必要はない、と私はいつからか知ったように思います。
でも、わたしたちはどこかで
「こういう自分は他人には喜ばれない」だとか
「こういうことをすると喜ばれない」
と記憶してしまうんです。
それは、人として生きていく上で必要なストーリーかもしれません。
一度不幸というものを味わってから
堪能する幸福や繋がりの方がより強いということを知っているから。
だから人はそういうストーリーを歩むのかもしれません。
—
最近よく思うのです。
巷にはいろいろな方法が溢れていて、
そしてわたしもそれなりに色々な方法を伝えてきたけれど、
すべてに通ずるのは
「とにかく、くつろげよ」ってことなんじゃないか、って思うんです。
リラックスすること。
チカラをぬくこと。
今、この瞬間にくつろいで、
一番心地よい自分であること。
そして、それを瞬間瞬間くり返していくこと…。
すべてのノウハウも、考え方も、
そしてメソッドも、
ひとつのきっかけにすぎませんが、
切り口は違っても通じている最終地点はそこなんじゃないかと思うんです。
確かに、必死になって心理学を極めたいと思っていた
やく3~4年前、というのは
自分の中の「原因不明な緊張」を
解きたくて解きたくてたまらなかった時期だったと思います。
常に緊張していた気がしました。
それは常に何かと闘っているのだ、
と気付くには時間がかかりませんでしたが、
闘う自分とまた、闘ってしまうことをやめるのも
また難しかったように思います。
—
自分を不幸にする人も、自分を悲しい気分にする人も
また、そのような現実も本当はない。
あるのは自分のことを悲しくする「解釈」や
「思い込み」と
自分のことを不幸に思わせる「観念」や「前提」があることなんだ、
という事実がわかったとき、
ちょっとチカラが抜けましたが今までそんなことに
苦しんできたなんて…!と
受け入れられない自分もいました。
でも、
やはりこころのどこかでは
「今にくつろぎたい」
という気持ちが強く、またそれがわたしのなかで勝ったので
本当に言葉の通り「お手上げ」となったのです。
それは、色々な抵抗の末に起きた
一瞬の出来事でした。
—
お手上げ、サレンダー、降参
という言葉は聞こえはいいですが、
自我にとっては否定すべき行為です。
また、それは「負け」を意味しますが、
それを勝ち負けと称しているのは自我のみです。
本当のサレンダーや
勝つでも負けるでもなく、
「そもそもそこに、争いは必要がなかった」
という世界観です。
だから、そもそも闘うとか闘わないとか、
そういうのはもう、いいっか。
となったとき、サレンダーは起きました。
また、こうやって書くと多くの人は
「わたしもそうなりたいです」
と言いますが、
そもそもその状態ではまだ「サレンダー」と闘っていることに気付いてみてください。
サレンダーできない自分と闘っている、
という状態でなければ、
「わたしもサレンダーしたい」
とは思わないのですから。
はい、ここらへんに面白いパラドクスがあるなーと思います。
—–
少し話はかわりますが、
ちょっと前?1年ほど前?からずっと言ってきたことがあります。
というか、疑問に思ってきたことがあります。
もしかすると同じ疑問をもつ人もいるかもしれませんので、
常々いっているつもりですが、あえて書き出してみたいと思います。
(この時点で、私の中には
同じことを何度も言うのは格好わるい、
という観念があるなあと気付きますが。笑)
まず、潜在意識業界や、スピリチュアル業界を渡り歩いていると、
あちこちで同じことを言われ、現在では多くの人が
「自分の世界は観念でつくられている」
ということや
「すべてのことは思い込みである。幻である」
ということ。
または、
「自分の前提を変えれば現実は変わる」
ということや
「他者や現実は自分の観念をうつす鏡である」
ということを知っています。
だから、簡単で単純なある方程式みたいなのが生まれます。
例えばこうです。
お金が手に入らないという観念(思考・ブロック・価値観)がある
↓
じゃあ、金がざっくざく手に入る観念に変えればいいじゃないか!!!
という具合です。
一見すると何も変じゃありませんよね。
更に、こうみていきます。
幸せにならない、という思い込みがある
↓
それに気付いたら、じゃあ、幸せである!という思い込みを持とう
という具合でしょうか。
これも簡単ですがよくあるパターンです。
わたしはこれに、そもそもの違和感を持っています。
一般的な価値観で言えば、
お金がない、よりもお金がある、の方がいいでしょう。
幸福である、よりも幸福でない、ほうが嫌に決まっています。
でも、すごくすごく冷静に考えたとき、
わたしはこう思うのです。
そもそも善し悪しの問題じゃない。
ストーリーの問題である、と。
お金持ちであるかどうか、
という一点だけを見ると、そこには解釈が生まれます。
「良いのか、悪いのか」と。
ですが、全体的な「流れ」みたいなのに意識を持っていくと、
今お金持ちであるかどうか、というのは
どうでもよくなるのです。
っていうか、大切なのは一点だけではなく
「つながり」だろ?って。
自分の状況や現実を一点のみで観測し、
またそれに対して判断をしていると
こういうブロックを外したいとか、
こういう観念を手放したいとかうんぬん言い出しますが、
そもそも
「お前の人生、一点だけで決まらないんだから
現状をどうこうするんじゃなくて、流れをつくれよ!」
って思うわけです。
今、お金がないのであれば、それだけを問題視するのではなく、
人生全体の「ストーリー的」にそれをどう捉えるのか?と考えてみること。
今、不幸なことがあるとするならば、
それをどうこうしようと観念をいじくる前に、
「自分にとって今経験していることが
どのような意味を持つのだろう?」と
そこに意識を向けていけば良い。
要するに、
「生き方なんて、自分で決めりゃいい」ってことだし、
そういう巷の「幸福論」にまどわされちゃうから
どうこうしても抜け出せないんだよ、
ってことなんです。
—
わたし、たまに失敗することをつくります。
そして、うまくいかないことを創りだします。
でも、そこだけを見れば、
ただの不幸ものです。
ただの失敗です。
ただのうまくいかないことだし、
ただの悲しい現実です。
でも、
「そんなのは、ストーリー的に必然である」
と思えた時に、どうでもよくなるんです。
「だって、そういう展開だから」
と思えたとき、
今の現実をどうこうする以上に大切なことが見えてくると思うんですよ。
完全に確信犯ですね、はい。わかってます。
でも、好きなストーリー展開ってのがみんなあるわけじゃない?
それがわたしが、この記事とかでうるさく言っている
「世界観」のことなんですよね。
イメージを変えるとか、
考えることを変えるとか、
観念や思い込みや過去の記憶を手放すことも確かに大切。
でも、それよりも
「今、という点を生かした上で
どんなストーリー展開にするか?」って考えた方が
より創造的だと思うんです。
というか、そうなんです、はい。
—
わたしが癒しやブロック外しや過去の観念手放しに
時間をかけたり、インナーチャイルドうんぬんに時間をかけることを
一切やめたのはこれが理由です。
意味がない、というわけではなく
価値がない、というわけでもなく
それが「好みだからだ」という感じなのですが。
わたしとしては、
不幸も幸福も、うまくいくこともいかないことも
総合的に見て「超幸せなことである」
と思うんです。
良い感情も悪い感情も
総合的にあってこそはじめて「ええなあ」と思える感じ。
そういう色んな感情がある日常のほうが、
毎日ハッピー♪るんるんお花畑~♪
より、楽しいってこと。
あくまでも私の世界観です。
みなさんはどうかしら?
とにかく、今、ここにくつろげる思考を探す、ということは大切だし、
誰もそれは教えてくれません。
きっかけしかくれませんし、
そうだと言われてもそうだと思えないなら、
「そうじゃない」ってことにすればいいわけで。
自分のオリジナルな「幸福論」を
見つめていきましょね~。
—
はい、
書き出しとオチがまったく異なりますが、
まぁ、いいってことで、ちゃんちゃん。